たにせんについて

たにせんについて

私は鹿児島の長島町という田舎の離島で生まれ、そこで高校卒業までの18年間を過ごしました。

実家の家から徒歩1分の汐見漁港

私の家は、先代の「きくじ」という名前にちなんで名付けられた「菊丸」という船を代々受け継ぎながら、漁師を営んできた漁師一家です。

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旬の魚を定置網で捕り市場へ出荷
当然ながら自宅でいつも刺身
ウニの季節は素潜り・ウニの殻は肥料にして畑へ
ウニの季節は素潜り・ウニの殻は肥料にして畑へ
漁が解禁された時期は伊勢海老を捕る。最近ニシキエビも交じる
漁が解禁された時期は伊勢海老を捕る。最近ニシキエビも交じる
バーベキューも半分以上は魚・・・肉がいいと当時は思ってた
バーベキューも半分以上は魚・・・肉がいいと当時は思ってた

父は現在も現役の漁師として働いており、10年ほど前までは自営の鮮魚店も営んでいました。現在は予約注文のみで刺身の盛り合わせなどを提供していますが、今では漁師の仕事だけで手一杯の状況です。

この海域で漁をしています
この海域で漁をしています

私はそんな家庭の長男として育ち、小学生の頃から朝3時に起きて父と一緒に漁へ出ていました。一晩かけて仕掛けた網を引き上げ、魚を外すなど、幼い頃から父の仕事を手伝う毎日を過ごしていました。

さらに、私が小学3年生の頃に「谷口鮮魚店」をオープンしてからは、出刃包丁を握ってさまざまな魚を捌いてきました。その経験から、幅広い魚の捌き方を身につけています。

実家に帰るたびに下処理の手伝いをしています
たにせん

当時は「看板むすこ」なんて呼ばれて、周りから可愛がられていた記憶があります(笑)。8歳の子どもが大きな出刃包丁を握ってブリや真鯛・ヒラメなどを捌いていたので、かなり珍しい家庭に映っていたのかもしれません。

鮮魚店には大きな生け簀があり、朝の漁で獲れた活きの良い魚たちは店の中で泳がせていました。父が船の仕事に出ている間、私はその魚たちを眺めながら店番をして過ごすこともよくありました。

朝の漁で獲れた魚を、そのまま食べやすいように調理・加工して提供していたことが評価され、今では父は老人ホームや保育園とも年間契約を結ぶまでになりました。そんな父の働く姿を、私は昔から今までずっと尊敬しています。

釣りは幼少期から今に至る

実家には常にルアーやエギが大量にある
実家には常にルアーやエギが大量にある

私は漁師の父を持ち、港まで徒歩1分という環境で育ったため、釣りにおいては「父が漁で捕る魚にどれだけ勝てるか」をテーマにしていました。その思いから、さまざまな釣りに挑戦してきました。

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たにせん

親父に勝てる部分なんて一つもない。だからこそ、せめてこういうところだけでも負けたくない――そんな意地みたいな気持ちがあるのかもしれません。結局、親父には敵わないんですけどね。でもその分、魚の生態に関しては、普通の釣り人以上に真剣に向き合ってきた自負はあります。

ただ、高校卒業後に東京へ上京してからは、10年以上釣りから離れていました。その後、子供が生まれ小田原へ引っ越したことをきっかけに再び釣りを始め、今では改めてどっぷりハマっています。

たにせん

今から考えると私の人生は「魚」とは切っても切り離せない強い縁があるんだなと改めて感じています。親父が漁師を引退する頃には漁業権についても話し合わなければならないと思っていますし、釣りを楽しめるのはもしかしたら今だけかもしれません。

そんな自分が、釣りを通して感じたことや気づきを記録として残しておきたくて、このブログを始めました。
いわば「釣りの備忘録」みたいなものです。

とはいえ、せっかく続けるなら多少は収益にもつながってほしいので、AmazonリンクやGoogle広告なんかを少しだけ貼らせてもらっています。そのあたりは温かく見てもらえたら嬉しいです(笑)